『正午の伝説』作品ノート

 丁寧に、ひっそりと、この世界と他人に震え戦きながら、裸の神経を差しだしている。誤解されることを過剰に怖れ、とめどなく吐きだされる言葉によってみずからを確かめつつ、吹きっさらしの地平に寄る辺なく佇んでいる。
 別役実氏の戯曲に描かれる人々の、ある類型として導きだされるのはそのような人物像だ。彼らの抱える恐怖は、もしかすると作家自身のそれかもしれない。もしくは作家の感情移入の対象が、愛さざるを得ない相手が、そういう事情に耐えている人々なのかもしれない。

 不条理演劇は、人と人、人と世界のあいだに“虚空”の裂け目が覗いていることを指し示す演劇だ。人と人の間に横たわる乗り越えがたい断絶を露わにし、その亀裂に目を向けることで、日常性とは何であるかを炙りだすものだ。
 氏は演劇を“虚空への冒険”とする。この世界がこうして“ある”ことが、何を根拠にして“ある”のか、突き詰めてみればわたしたちに何を言えるだろう。作家の口にする“虚空”は、その無根拠さの別名だろう。

 そもそも、なぜその会話がはじまったのかの前提を逸したまま、論理ばかりが空転して紡がれる言葉のやりとりは、とりわけ『正午の伝説』においては、あの戦争の責任の淵源をはっきりとさせないまま、その後の七十年を過ごしてきた日本社会の繁栄と衰退の反映であるように思われる。「天皇のために死ね」という体制から、天皇の人間宣言を経て民主主義の国へ。それがなぜいま教育勅語(天皇のために死ね、忠実な臣民たれ)の学校現場での朗読を文科副大臣が「問題なし」と答弁する国になったのか、事態はまさに氏がとぼけた笑いとともに描きつづけてきた不条理演劇のそれではないか。いったいここはどういう社会だ。

 滑稽に、時に酷薄なまでに存在の揺らぎを突きつける氏の劇構造と、それを支えるせりふをわたしは愛する。上演に際しては、“虚空”に対峙する者の“透明な悲しみ”に舞台が満たされることを願う。

820製作所/波田野淳紘