劇団820製作所第11回本公演 『つばめ/鳥を探す旅の終わり』 作品ノート |
青い鳥は、幸せの象徴として語られます。 象徴とは、隠されたもの、かたちのないものを、かたちあるものに託し、あらわすこと。 本来、触れることも見ることも、名指すことも難しいそのものを、具体的な事物によって、くっきりと輪郭づけること。それが象徴のはたらきです。 幸せを、夏の陽射しとして語ることもできます。生きる力そのもののようなきらめく光線に、草木にこぼれる宝石のような輝きに、幸せと通じるなにかをわたしたちは見ます。 もしかしたら冬、急ぎ駈ける朝の白い吐息とも、見知らぬ異国の夜の舗道とも、それを語ることができるでしょう。あるいは背の高いトウモロコシ畑と、まだあたたかなふかふかのバゲットと。道ばたの花壇と、くたびれたパジャマと、そして青い鳥と。 鳥は、その声の届くかぎりに歌を運び、ちいさな物音に怯えては、また大空を駈けめぐります。 やさしく世界を楽しませながら、同時にとてもか弱く、頼りなく、はかない存在でもあります。 メーテルリンクの著した『青い鳥』はチルチルとミチル、幼い二人の兄妹が、そのながい旅路の果てに青い鳥を見つけるまでの物語で、探していた鳥はけっきょく自分たちの部屋のなかにいました。 この物語はたくさんの象徴を秘めています。 探すべき幸せは、もっともそばに最初からあるのだと、そう語ることもできます。本当はいつもそこにあるのに、ただ、人はそのことに気がつかないだけなのだと。 また、幸せはいつだって一歩先にあるのだから、求めつづけなければ手に入らないのだと、そう語ることもできます。物語の終わりで、鳥が再び空へと飛び去るのを見送り、泣きはじめた恋人の手をとり、もう一度約束を――鳥を探す約束を交わすチルチルのように。 じつは、チルチルとミチルは、自分達の部屋に青い鳥がいることを、そもそものはじめから知っていました。 ところが二人に旅をうながす魔女は、それは「ほんとう」には青くないのだと語ります。そしていま、どうしても「ほんとう」に青い鳥が入り用なのだと。そのために二人は旅に出なければならないのだと。 およそ一年をかけた旅を経て、もといた部屋に帰りついたとき、ようやく、それがたしかに青い鳥だったとわかるのです。 なぜ、鳥はその羽根を「ほんとう」に青くしたのでしょう。 いえ、「ほんとう」には青くなかったはずの鳥を、それでも「ほんとう」に青いのだと、彼らはなぜ知ることができたのでしょう? 魔女が二人の部屋を訪れたのは、クリスマスの前の晩でした。 そのとき、二人の兄妹は、窓から「向かいの、お金持ちのこどもの家」を眺め、その豪奢なよろこびの夜に、すっかり心を奪われているところでした。食べきれないほどのお菓子、たくさんのおもちゃ、歌とおどりの大騒ぎ。けれどわが家にはツリーもなく、「クリスマスのおじいさん」さえ今年は来られません。 窓の外で、こどもたちがお菓子を食べはじめます。兄妹が、お菓子を「自分ももらったつもりになって」、想像のそれを分けあうフリをするとき、とつぜん戸がノックされ、魔女が姿をあらわすのです。 なんという正確な、出発の合図でしょうか。 「暗くって、小さくって、それにお菓子もない」このうちを出て、二人は様々な国を旅します。 行く先々で、青い鳥は見つかります。ですが、捕まえたとたんにそれは色をうしない、くたびれて死んでいきます。「ほんとう」ではなかったのです。 目をこらして、闇をすすみます。闇はときに二人を打ちのめしますが、見るべきものをまっすぐに見るための役にも立ちます。 見たいものでなく、見えるものを。見えるものではなく、隠されたものを。隠されたものではなく、目のまえにあるそれを。ただ「ほんとう」のことを。 そうして、みすぼらしかったはずのわが家のうつくしさに息をのみ、もういらなくて「みむきもしない」でいた鳥こそが、ずっと探していた鳥だったのだと知ることになります。 たとえ、その鳥が青くなくても。弱弱しく、情けなく、頼りない存在であっても。だれからも見捨てられ、かえりみられない存在であっても。 たとえそうであろうと、二人がその鳥を愛しみ、守ることのできるちからを得たとき、旅は終わりました。 鳥が、鳥のまま夢を見て、歌うことを許される場所。 おそらくはそのような場所こそを、わたしたちは家と呼び、家族や家庭と呼び、ホームと名づけたのです。わたしたちはそんな場所をいつも、いつでも日々の内に探しています。探しつづけている。 青い鳥はどこにもいません。わたしたちが旅を終えない限りは。 きみを裏切る仲間と、きみに信頼を寄せる仲間とを引き連れて、ときどきはたったひとりで、この世界の深い森を歩きださない限りは。 兄妹の部屋に最初にいたあの鳥はもしかしたら、チルチルとミチル自身であったのかもしれないと思います。それは、二人の両親にとっての青い鳥であったのだと。 だとしたら二人の旅は、幼きものを守り、時に縛りつける「かご」から抜けだして、自らが「おとな」となるための大切な試練だったにちがいありません。 わたしたちは鳥でした。いつか、その羽根を青くしました。 わたしたちは鳥でした。いつか、その声で世界を楽しませました。 だれがなんと言おうと、わたしたちは鳥で、いつか、だれかの旅路の果てに、その羽根を青くしました。 傷つき、声をなくしても。 記憶の底をまさぐっても、羽根を青くした覚えがなくても。 無力であることに嫌悪しか感じなくても。 いま、生きている限り、わたしたちはだれかに、なにかに守られて、いつかひととき、夢を見ました。 かごの外へ、一歩足を踏みだせば、ときに嵐のように傷つくこともあります。 たたかいに敗れ、足がもつれ、窓の外へ落下しても、救いの手が差しのべられることは稀です。 けれど、ただしく落ちつづける者だけが羽ばたくちからを持ち得るのだと、わたしたちは知っています。 旅を、その終わりを、描きたいと思います。 象徴的に。 だから、なによりもあなたの深くにたどり着くように。 幸せな芝居をします。 |